2010年7月にリリースされたバージョン10.8ではSCF計算や構造緩和計算の手法が改善され、精度と収束性の両方が大きく向上しました。それに伴い、有限バイアス下における構造緩和計算機能が正式に実装され、Atomistix ToolKitを用いてナノスケールデバイスのエレクトロマイグレーション(英:Electromigration)を解析することが可能になりました。エレクトロマイグレーションとは、電流が流れることによって生じる構造変化を表し、集積回路の劣化原因としてデバイス設計の分野では古くから知られた現象です。
ナノスケールデバイスでは、原子スケールでの僅かな構造変化が伝導特性を著しく変化させることがあるため、エレクトロマイグレーションの考慮は非常に重要です。たとえマクロスケールでみれば僅か構造変化であったとしても、素子の断線や予期せぬ伝導特性の発現に繋がる可能性が懸念されます。一方で、エレクトロマイグレーションによる伝導特性変化をスイッチングデバイスに利用する研究も精力的に行われています。10.8以降のバージョンでは、
をシミュレーションすることが出来ます。
本事例では、有限バイアス下における構造緩和計算の一例として、金電極―ターフェニルジチオール―金電極におけるエレクトロマイグレーションによるコンダクタンス変化の解析結果を紹介いたします。
本計算事例で採用した入力構造の一例を図1に示します。左右電極にはAu(111)を採用し、電極間にターフェニルジチオール分子が架橋されています。ターフェニルジチオール分子の硫黄原子はAu(111)のhollow siteに位置しており、Au-S結合長は2.66Åです。
図1は、0バイアスかつ金電極を固定した条件での構造緩和計算で得られた構造です。本計算事例では、入力構造を固定せず、各バイアス下で構造緩和計算を実施しました。そして、構造を図1にあるものに固定した状態で有限バイアスを印加した場合と、有限バイアス下で構造緩和計算を行った場合の両方で物理量計算を行い、バイアス電圧を印加したことによる構造変化が電気伝導特性に及ぼす影響を調べました。

図1
0バイアスの条件で構造緩和された後のAu(111)/terphenyl-dithiol/A(111)。
ターフェニルジチオール分子のLUMOの空間分布には、捻れたベンゼン環間にπ結合が存在します(図2(b))。ゆえに、基底状態におけるターフェニルジチオール分子は真ん中のベンゼン環が両端のベンゼン環に対して捻れた構造をとります(図2(a))が、LUMOに電子が入ると3つのベンゼン環が同一平面を形成しようとする力が働き、捻れが緩和されることが期待されます。なお本事例では、図2(a)における原子(1,2,3)が成す平面と原子(2,3,4)が成す平面の二面角でベンゼン環間の捻れを特徴付けることにします。
捻れの緩和は、分子のπ軌道の非局在化を促進し、コンダクタンスが上昇する効果をもたらします。以上の観点から、ターフェニルジチオール分子のLUMOがバイアス窓に含まれる程度にバイアス電圧が大きい場合、エレクトロマイグレーションによってベンゼン環間の捻れが緩和され、その結果、コンダクタンスが上昇することが示唆されます。

図2
(a) ターフェニルジチオール分子の分子構造と二面角の定義。
(b)ターフェニルジチオール分子のLUMOの空間分布。
計算に用いた主要なパラメータを表1に記します。
表1 計算条件
| ソフトウェア | ATK-DFT 10.8.2 | |
|---|---|---|
| Mesh-cut off | 75 Hartree | |
| 交換相関汎関数 | LDA-PZ | |
| 基底関数 | 金原子 | Single-ζ |
| それ以外 | Single-ζ Polarized | |
| k点サンプリング(SCF) | (4, 4, 100) | |
| k点サンプリング(物理量) | (11, 11) | |
| 構造緩和計算の収束条件 | 0.05 eV/Å以下 | |
Au(111)/terphenyl-dithiol/A(111)の電流−電圧特性を図3(a)、捻れたベンゼン環が成す二面角とバイアス電圧の関係を図3(b)に示します。バイアス電圧が2.0Vを越えた辺りからコンダクタンス増大が顕在化しています。二面角の変化も2.0V以上で有意な変化が生じているため、エレクトロマイグレーションによるベンゼン環間の捻れの緩和とコンダクタンスの変化に直接的な相関が見られます。

図3
(a) Au(111)/terphenyl-dithiol/A(111)の電流−電圧特性。比較のため、構造緩和しなかった場合の電流−電圧特性も同時に表示してある。
(b)赤く表示された4原子が成す二面角のバイアス電圧依存性。
バイアス電圧=3.0Vにおける透過スペクトルを図4に示します。0.4eVと1.4eVに存在するピークがエネルギーの負方向にシフトし、またピークの最大値が増大しています。構造的には、二面角が151.5°から158.3°に変化する程度の軽微な変化ですが、その変化が透過スペクトルに有意な差をもたらすことが理解できます。

図4
バイアス電圧=3.0Vにおける透過スペクトル。
バイアス電圧=3.0Vにおけるターフェニルジチオール分子に射影された状態密度(PDOS)、及びターフェニル分子のMPSHスペクトルを図5に示します。PDOSとMPSHスペクトルとの類推から、1.25eV付近に見られるピークがターフェニルジチオール分子のLUMO由来の状態であることが分かります。バイアス電圧=3.0Vの場合、LUMO由来のPDOSがバイアス窓にほぼ完全に含まれます。以上の解析により、LUMO由来のPDOSがバイアス窓に含まれることによって、ベンゼン環間の捻れが緩和するようなエレクトロマイグレーションが生じたと解釈することができ、期待された通りの結果が得られていることが分かりました。

図5
バイアス電圧=3.0Vにおけるターフェニルジチオール分子に射影された状態密度とMPSHスペクトル。